ハワイ海戦

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ハワイ海戦とは1941年12月8日にアメリカ合衆国ハワイにおいて生起した海戦である。
大日本帝国海軍機動艦隊はハワイの真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃し、歴史的大勝利を収めた。

背景[編集]

アメリカ合衆国は成立以来、植民地主義を推し進め、1898年にハワイを武力併呑したほか、1899年にはフィリピン植民地化し、さらなる植民地利権獲得を目指して中国進出をもくろんでいた。

1930年代当時、中国は孫文革命が終わらぬまま国民党や軍閥、共産党などの対立が相次ぎ内戦状態であったが、1937年に中国に駐留していた日本軍に対して中国側が攻撃を仕掛け、自衛のためやむなく日本軍はこれに反撃し(盧溝橋事件第二次上海事変)、支那事変へと拡大してゆく。

この事態にアメリカは目をつけ、日本に中国からの撤兵要求を突きつけ、さらに中国国民党の蒋介石を使って中国利権を確保しようと援蒋ルートを開設しした。 この援蒋ルートを遮断するため日本はフランスと協定を結び、フランス領インドシナへ駐留したが、アメリカはこれを口実に日本への石油の輸出を停止し、日本を締め上げにかかった。日本が弱体化すれば中国利権を手に入れられると考えたためである。

このアメリカの動きに危機感を覚えた日本は単独では強大な物量を誇るアメリカに対抗できないと考え、1940年9月27日にドイツイタリア同盟を結ぶが、アメリカは欧州の事情を理由にこれを太平洋の平和維持への脅威と決め付け非難した。

さらに1941年11月26日にアメリカは身勝手な要求を羅列したハル・ノート(下記)を日本につきつけた。

ハルノートの内容とその目論見[編集]

フランス領インドネシアからの撤兵。(援蒋ルート再開を狙ったものである)
中国大陸からの即時撤兵。(中国の利権を手にするために邪魔な日本を排除するため)
アメリカの支援する中華民国以外の政府を認めない。(同上)
日本が保有している中国大陸における権利と租借地の放棄。(日本が既得していた利権を横取りするため)
アメリカが一方的に凍結していた在米日本資産の凍結解除を見返りに日本が報復的に行っていた在日アメリカ資産の凍結解除。
日米の為替安定のための協定締結。
日独伊三国同盟を太平洋の平和維持に反すると決め付け破棄を要求。(後の対日戦争を有利にするため)

これは最終的な通帳ではないとされていたが、経済的に疲弊し、強大な物量を持つアメリカの強引な圧力を前にしていた日本にとって最後通告に等しく、この要求を受諾しても日本への戦略物資の輸出が再開されるとは限らず、時間がたてば石油が枯渇し、軍事活動も経済活動も不可能になってしまうことを日本は恐れていた。

しかし、それでも日本側は平和への努力を続け、交渉のための乙案を提示し、フランス領インドシナ以外での武力進出の停止を申し出、インドネシアで資源を得られるように交渉したがアメリカ側は三ヶ月間だけ有効の、日本が必要としている資源には一言も触れていない回答を提示した。しかもアメリカはすでに対日戦争の用意に入っており、これはハル・ノートを想起したコーデル・ハルの電話の内容からも明らかで「これから先は陸軍長官と海軍長官の仕事だ」といった趣旨の発言をしており、米軍軍部は日本海軍の動きを誇張して報告した他、アメリカ大統領のルーズベルトイギリスに日本は受諾しなだろうと伝えており、当初から交渉妥結を望んでいなかった。 スティムソン陸軍長官は、どうやって日本に先に攻撃させて戦争に誘い込むか、といった趣旨のことを当時の日記に書き残している。 このような状況であったにもかかわらず、ルーズベルトは開戦後の議会においてさもアメリカの和平提案を日本が踏みにじったかのように演説した。

攻撃[編集]

ハワイ攻撃作戦は対米戦をにらんで、山本五十六聯合艦隊司令長官によって立案され10月19日に認可された。また空母艦載機部隊はハワイ在中の米艦艇攻撃のための猛訓練を繰り返し練度は非常に高くなった。さらに浅い真珠湾で魚雷を使うため超低空雷撃の訓練と魚雷に改造を施し米艦艇を魚雷攻撃できるよう能力を向上させ、作戦遂行を待った。

1941年11月22日、日本海軍機動部隊は択捉島単冠湾に集結し、26日にハワイに向け出撃した。
12月2日、作戦実行命令の暗号文である「ニイタカヤマノボレ」が打電され、作戦遂行が決定的となる。

12月7日に伊号潜水艦特殊潜航艇を発進させ、翌日8日、午前1時30分、第一次攻撃隊183機が出撃、午前2時45分には第二次攻撃隊171機が出撃。
午前3時19分、第一次攻撃隊指揮官より全軍突撃が命じられ、攻撃部隊は真珠湾の飛行場、米軍艦隊へと攻撃を開始、現地では早朝であり米軍はまったく油断しており、米軍機の殆んどは急降下爆撃部隊の正確な爆撃によって飛び立つ間も無く地上にて破壊され、僅かに飛び立った数機も瞬く間にゼロ戦に叩き落された。

日本軍空母艦載機部隊の攻撃は非常に強力かつ正確でアメリカ太平洋艦隊と航空部隊に壊滅的打撃を与えることに成功した。
航空機による奇襲攻撃を予想していなかったアメリカ軍は戦艦8隻、巡洋艦8隻、駆逐艦30隻、航空機399機を失って大敗した。


関連項目[編集]

大東亜戦争

太平洋戦争

ハル・ノート

航空母艦