堺市

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堺市(さかいし)は、大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。泉北地域の一つではあるが、河内地域など歴史的に泉北郡でなかった地域も多く含まれており他の泉北地域とは区別される。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市である。

目次

がれき処理「検討」だけで復興予算約86億円。がれきは受け入れず[編集]

東日本大震災で発生したがれきを受け入れない堺市が、復興予算約86億円をごみ処理施設の新設費などとして受け取る。

がれきの処理に困った環境省が、受け入れを検討しただけの自治体にも復興予算の交付を決めたためだ。小さな自治体の年間予算にも匹敵する巨額の資金だけに、「本当にもらっていいのか」と疑問の声も上がっている。

堺区の臨海部に建設総額約182億円のごみ処理施設を整備中で、2013年4月に供用開始を予定している。市は2012年1月、この施設の建設事業費と老朽化している東区のごみ処理施設の改修事業費のうち約86億円分を平成24年度の国の交付金対象事業と位置付けた。国の交付率に基づき約40億円を要望し、残る約46億円分を地元で負担する予定だった。

しかし国は同4月、「堺市はがれき処理を検討している」として、市が求めていた通常枠の交付金ではなく、新たに設けた復旧・復興枠などでの措置を市に打診。約40億円に加え、地元負担の約46億円分も復興予算で交付する枠組みを示した。

市はがれき受け入れを決定していなかったが、国が「検討レベルでも交付条件に当てはまり、結果的に受け入れることができなかった場合でも返還を求めない」としたため、交付を申請。同6月にがれきの全体量が判明し市が受け入れなくても対応できることになったが、手続きは進行。同10月に交付が決まった。

開会中の定例市議会で市議からは「一部を被災地への義援金とするべきでは」「道義的におかしい」と異論が浮上したが、竹山修身市長は「財源の確保は首長の責務。ありがたくいただきたい」と答弁した。

がれき処理を検討しただけで同様に復興予算を受け取る自治体は堺市のほか、約36億円が交付された埼玉県川口市など6市町3組合ある。堺市の約86億円は突出して高い。

とはいえ実際には堺市はそもそも広域処理の受け入れの検討をしていたわけではないのにも関わらず、環境省は堺市が広域処理の受け入れを検討したことにして復興交付金を受け取るよう促したのである。

NZへ「ビジネスクラス」、市議1人80万円の旅費“公費負担”は妥当か(2014年7月)[編集]

堺市議会が、公費を使った議員の「海外派遣」を6年ぶりに再開する。景気低迷などを理由に、「海外視察」は中止してきたが、今回はニュージーランド・ウェリントン市の姉妹都市提携20周年を記念した招待に応じて、派遣を決めた。

議員1人あたり約80万円の旅費は公費負担で、航空機もビジネスクラスを使用。市議会内でも「議長以外の議員は自費でいけばいい」などとする反対意見も上がったが、最終的には賛成多数で承認された。その海外派遣の実態とは-。

「今回の目的は、ウェリントン市と堺市が交流をさらに深めることが第一義。重要な取り組みだ」

6月24日の市議会本会議。訪問予定の議員らは、反対派議員に派遣の目的を問われると、いわゆる従来の「海外視察」ではないことを強調した。

市議会は「議員海外調査研究派遣要綱」を定めている。反対議員は、この要綱の「要綱に定めるもののほか、議員の海外派遣について必要な事項は委員会で協議のうえ議長が定める」とした条項の手続きがとられていないとして、議長にも今回の派遣の手続きを不当として異例の質問をした。

さらに、「文化使節団」として今回、ウ市を訪れる市民は自費なのに、議員は公費でまかなわれるとし、「ためらいがないのか」ともただした。

これに派遣議員の1人が「税金が無駄にならないよう、むこうで一生懸命勉強し、議会や委員会などで市民の皆さんにも活発に(成果を)つなげていきたい」と答弁するなど、“攻防”が繰り広げられた。

今回のウ市訪問は、2014年3月、ウ市のセリア・ウェイドブラウン市長から竹山修身市長あてに、市長や議長、議員にも招待を呼びかける手紙が届いたことに始まる。議長の訪問は公務扱いとなるため、議決は不要だが、議員については議決が必要になる。

参加を希望したのは、大阪維新とソレイユ堺、自民党・市民クラブの3会派の議員各1人。派遣の日程は、8月21日に出発し、翌日はウ市市役所、ニュージーランド日本大使館、ニュージーランドラグビー協会を訪問。23日に日本祭に参加し、24日に桜の植樹や映像産業の視察をして、25日に帰国する予定だ。

議員は、航空機でビジネスクラスを使用し、旅費は1人あたり約80万円。これに対し、茶道大正琴の「文化使節団」として訪問する市民は自費で、航空機もエコノミーを利用する予定だ。

議員が海外の先進事例などを調査・研究する、いわゆる「海外視察」について、市議会では、景気低迷による海外視察自粛の全国的な動きや米同時多発テロなどを受けて中止している。

20年1~2月に議員5人がドイツを訪問したのが、最後の海外派遣。この翌年もベトナムシンガポールなどへのアジア視察が計画されたが、経済情勢の悪化などを理由に中止している。

結局、今回の派遣をめぐる市議会の採決では、反対議員の2人を除き、派遣議員のいない公明、共産も賛成し、賛成多数で承認された。これまで「海外視察」に厳しい目で対応してきた共産も、今回は「国際的儀礼に応えるもの」として是とした。

反対派議員の1人は本会議の討論で、「私たちは市民に選ばれた代表として、行政執行を監視し、注文をつけるための特別な権限を与えられているが、身分や立場にも『特権意識』があると考え違いをしていないか。市民の声にもっと謙虚に声を傾けるべきだ」と締めくくった。

さらに、この議員は今回の海外派遣について「要綱の手続きに違反しているのが一番の問題。要綱が適用されない海外派遣というのは詭弁だ。とにかく視察を復活させたいのでしょう」と主張。「交流、親善ということで行くことに意義はなく、公費を投入する必要はない」と指摘する。

これに対し、派遣される議員の1人は「正式な招待に応え、議員として交流発展の役割を果たす。政令市・堺として世界を見つめることは大事なことで、しっかり勉強してきたい」と意義を強調する。

賛成派議員の1人も「顔の見えるつきあいが大事。議員としても、外国からの正式な招待に応えるのは外交上の常識だ」としている。

一方、反対派議員が指摘する「手続き違反」については、議会事務局も今回の派遣が調査・研究目的の派遣には該当しないと判断。地方自治法と市議会会議規則により、議決によって派遣されるケースにあたるとしている。

従来の、いわゆる議員の「海外視察」が全国的に“自粛”傾向となっているのは、視察の具体的な成果が見えない「物見遊山」と市民に批判されたことも影響している。今回の公費による議員の訪問は交流促進が目的だが、その結果をどのように生かすかは今後、市民も注目するところだ。

市民グループ「見張り番」の松浦米子・代表世話人は「姉妹都市と交流して親善を深めることを、ただちに『けしからん』ということにもならず、難しいところ」としながらも、「自費で行く市民のことを思えば、議員もいくらか負担するとか配慮があってもいいのでは」と指摘。「税金を使って行くのであれば、きちんと市民に報告などをすべきなのは当然。さらには、今後にどう生かしていくかがが重要」としている。

地理[編集]

大阪平野のやや南を西流する大和川の左岸下流域に位置する。大阪湾に西面し、北は大阪市、北東は松原市、東は羽曳野市富田林市、南東は大阪狭山市河内長野市、南西は和泉市高石市に接している。市内は7つの行政区に分かれ、堺区が北西部に、美原区が東端部に位置する他は、中区東区西区南区北区と方位による区割となっている。

市名の由来[編集]

「堺」の地名は平安時代には見られ、摂津国河内国和泉国の「境(さかい)」に発展したことによると言われている。「境」、「左海」などとも表記された(宿院交差点にある石灯籠には「左海たばこ庖丁鍛治」と書かれてある)。

鎌倉時代以降は、摂津国と和泉国の荘園名として見られ、江戸時代元和年間)以降は、両国の国境に大小路という東西幹線を敷いた町となった。宝永年間には大和川の付け替えが行われたが、明治3-4年まで大小路は摂泉国境の役割を果たした。

国境が大和川に変更された後は和泉国のみに属する町となったが、1938年(昭和13年)の南河内郡金岡村編入以降、和泉国と河内国に跨る市域を形成するようになり現在に至っている。このため、他の泉州地域や泉北地域と区別して「堺・泉州」や「堺・泉北」のように併記されることが多い。

地域の概要[編集]

西部(堺区・西区)

  • おおむね熊野街道の東側は三国ヶ丘台地とも呼ばれる高台が広がり閑静な住宅地が多い。上野芝駅に近い霞ヶ丘や向ヶ丘といったやや規模の大きい住宅地は阪和線の母体である阪和電気鉄道により昭和初期に分譲された。また、この高台には北区にかけて古墳が多い(百舌鳥古墳群)。

中南部(中区・南区)

  • 泉北丘陵などと呼ばれる丘陵地帯で、石津川水系の河川に沿って古くからの集落が見られる。上述の交通網の影響から、交通過疎地といった状態が続いて発展が遅れていたが、泉北ニュータウンの開発で一変し、大阪市ベッドタウンとなった。鉄道は南海高野線に乗り入れる泉北高速鉄道が縦断する。また、この地域は須恵器の窯跡が多数発掘されている(陶邑窯跡群)。

東部(北区・東区・美原区)

  • 丘陵部ではあるが比較的平坦で、狭山池の両放水路である東除川西除川が北流する。大半が南河内郡の旧郡域にあたる。
  • 東区では、早くから高野沿線で住宅開発が行われ、南海鉄道(現・南海電気鉄道)の分譲による初芝住宅や、街の中央に噴水広場を設けた大美野の高級邸宅街が昭和初期に開発されている。戦前は堺市街の東縁・東郊に過ぎなかった北区は、戦後金岡団地新金岡団地・中百舌鳥公園団地等の開発で急速に市街化した。1987年には御堂筋線中百舌鳥駅まで延伸されている。また、この地域は美原区を中心に河内鋳物師ゆかりの地である。現在は何れの区も典型的な大阪市のベッドタウンとなっている。

歴史[編集]

石器時代[編集]

現在の堺市域に人が定住したのは古く旧石器時代とされる。市内各地の遺跡からは旧石器時代の打製石器縄文時代土器石器弥生時代銅鐸・土器などが発掘されている。また、浜寺の四ツ池遺跡は池上・曽根遺跡和泉市泉大津市)と並ぶ弥生時代の集落遺跡で、堺市域では最大規模を誇る(浜寺中学校造成と第二阪和国道敷設工事のため遺跡としての形はとどめていない)。1989年には国の史跡に指定された。このほか、石津川流域の下田町や鶴田町でも、竪穴住居跡を中心とする集落や土器・金属器などが出土している。

古墳時代(ヤマト王権の重要地)[編集]

古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器の生産が行われた。生産は奈良時代を経て平安時代まで続いた。泉北ニュータウン周辺や信太山丘陵にかけて須恵器の釜跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在も残る。ヤマト王権成立後は大仙陵古墳など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。

神功皇后三韓征伐からの帰途、七道の浜に寄り、地元の豪族の田蓑宿禰津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るように告げたという(住吉大社の起源)。

飛鳥時代(難波大道と交通網)[編集]

飛鳥時代になると、難波宮難波京難波津から四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道と、飛鳥の都と方違神社を東西に結ぶ丹比道(竹内街道の前身)、大津道(長尾街道の前身)が整備される。奈良時代から室町時代にかけて、これらの街道沿いの美原区大保(丹南)や北区金岡・東区日置荘周辺には河内鋳物師と呼ばれる人たちが多く住んでおり、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍した。

平安時代・鎌倉時代(堺北荘と堺南荘)[編集]

平安時代には熊野詣の宿として境王子大鳥居王子が設置された。鎌倉時代には京都奈良など後背都市の産業を背景に南北の堺荘が成立。

南北朝時代(南朝と勘合貿易)[編集]

南北朝時代には、南朝(吉野朝廷)方の住吉大社宮司の津守氏に関係して南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展した。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家三管領細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となる。戦国時代にはルソンカンボジアなど東南アジア方面での貿易で栄えた。

室町時代・戦国時代(東洋のベニス)[編集]

応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯びる。布教のため来日していたイエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している。なお、江戸時代に宿屋町の十間筋付近(当時の大黒町。現在の宿屋町東2丁)が「るいすの町」と俗称されており、フロイスが堺に4年ほど滞在した地と言われている。

安土桃山時代(自治都市)[編集]

安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成。会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世の自治都市となるが、その価値に注目した織田信長豊臣秀吉らの前に屈服。自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれる。その後、秀吉が大坂城を築き、城下町が開発されるに伴い堺商人の多くが大坂へ強制移住させられたため、堺の都市機能は著しく低下した。同様に全国各地の城下町にも堺商人が移り住むようになる。産業面では戦国期より鉄砲生産が盛んに行われ、また文化面では今井宗久千利休津田宗及に代表される茶の湯などが特記される。特に信長から武装解除された橿原市今井町との交流は深く、竹内街道を通じ江戸時代まで毎日行き来した。「海の堺」に対し「陸の今井」と呼ばれ、堺同様に自治都市として栄えた。

江戸時代(近世都市の源)[編集]

江戸時代には堺奉行が置かれ、糸割符など保護を受けるが、鎖国の成立とともに経済の中心は大坂へ移り、管轄も大坂町奉行が兼任する。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。しかも、この開削により河口付近に多量の土砂がたまったため、堺港に大きな船が停泊できなくなった。これにより、港湾機能も縮小せざるを得なくなった。

しかし、中世の自由都市堺と、江戸初期の堺の財力は莫大なものがあり、それが後世の日本に与えた影響は莫大である。中世の日本において一貫して大都市といえるのは京都だけであり、当時陸運の便利がよい京都に商人が集中していた。一方で堺は積極的に海運のため、全国の主に海岸の中小都市に莫大な投資を行った。その当時既に繁栄していた博多鹿児島大分などはともかく、それ以外の全国の多くの都市について、その発展の基礎部分に中世の堺商人の投資が大きな影響を与えているともいえ、それは大阪名古屋東京なども例外ではない。

江戸時代後期からそれ以降(工業都市)[編集]

江戸時代でも後期に入ると、醸造業などが栄えた影響で再度活気を取り戻すようになる。幕末になり、欧米列強が大坂の開港を要求すると、大坂が京都に近いことを理由に堺がその代港候補に挙がる。だが幕府内の勤皇派は、堺周辺には古墳が多いため、堺を開港地にすると外国人が無断で古墳に出入りする可能性があると指摘。そのため、第二候補であった兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。この結果、堺は中世以来の国際貿易港への復帰の道を閉ざされ、その座を神戸に明け渡すことになった。明治以降は、紡績煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げていき、阪神工業地帯の一角を占める経済的地盤を作り上げていく。また、戦後の高度経済成長期以降は大阪都市圏の発展・膨張とともに、泉北ニュータウンの開発に代表されるような、大阪市のベッドタウンとしての側面も兼ね備えるようになった。

なお、堺市の町名には「○丁目」の「目」がつかない。1872年の町名改正で、改正前までは独立していた小さな町を「○○東一丁」や「○○西一丁」などに変更し、「丁」に「町」と同格の意味合いを持たせたことに由来する。以後、周辺の町村を合併し市域に編入したが、町を細分する場合も前例に倣い「丁目」を使わず、美原区を除く市内全域が「丁」で統一されている。

年表[編集]

古代[編集]

中世[編集]

近世[編集]

近代[編集]

現代[編集]

「堺町」のある都市[編集]

堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っている。

堺空襲[編集]

1945(昭和20)年当時、日本には180の都市があり、うち58都市がアメリカ軍による空襲を受けた。アメリカ軍は180都市を人口の多い順に空襲する作戦をとり、堺市は人口18万人で空襲順位は24位であった。広義の「大阪大空襲」で着弾目標地点が置かれたのは大阪市(空襲順位2位)と堺市、尼崎市(同25位)のみである。アメリカ軍は堺市を空襲都市に選んだ理由を「堺の主要価値は大阪市に近接していて、その工業が大阪市と統合されていることである。また、この都市は大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供している。大阪の工場に打撃を与えるために、堺の軍需工場は疎開可能箇所として重要である」(アメリカ軍の作戦任務報告より)としているが、実際は非戦闘員を目標にした無差別爆撃であった。被害は工場より民家に集中した。

  • 3月13日・14日 - 第1次堺空襲(第1次大阪大空襲):B29焼夷弾
  • 6月15日 - 第2次堺空襲(第4次大阪大空襲):B29焼夷弾
  • 6月26日 - 第3次堺空襲(第5次大阪大空襲):B29焼夷弾
  • 7月10日 - 第4次堺大空襲(第6次大阪大空襲):B29焼夷弾、着弾点を初めて堺に置く
  • 8月10日 - 第5次堺空襲:艦載機・機銃掃射

市町村合併・政令指定都市への移行[編集]

2005年2月1日に東隣の美原町を編入合併した。この編入合併によって政令指定都市の実質上の要件である80万人を超えたため、2006年4月1日に政令指定都市へ移行した。

なお、隣接する高石市大阪狭山市との合併も検討していたが、2003年に高石市で合併の是非を問う住民投票が行われ、反対多数により堺市との合併問題研究協議会は解散。大阪狭山市では合併協議会設置が議会で否決された。しかし、合併はならなかったが、高石市とは現在も消防事業は共同で行っており(堺市消防局)、大阪狭山市内には堺市の飛び地が存在する。また、高石・大阪狭山両市とは市外局番が同じ(072局・堺MA)である。

複数の政令指定都市が存在する都道府県は、これまでにも神奈川県横浜市川崎市、後に相模原市)、福岡県福岡市北九州市)の2つだけしかなく、堺市の政令指定都市移行により、全国3府県目の事例となった。その後、静岡県静岡市浜松市)も加わり現在は4府県となっている。また、都道府県内の人口占有率が1割に満たない初めての例であり、2010年4月に移行した相模原市が2例目となる。

政令指定都市への道のり[編集]

黎明期

胎動期(合併で移行めざす)

  • 1966年 和泉市の横田礒治市長が、5市合併で政令指定都市になった北九州市を手本にした「泉北合併都市構想」を発表。堺市・泉大津市・和泉市と高石町(当時)・忠岡町の3市2町の大合併で政令指定都市移行を目指す。大阪府も合併を勧告。
  • 1966年 河盛市長が合併構想を受け、泉北3市2町に加え松原市羽曳野市富田林市河内長野市美陵町(当時)・狭山町(同)・美原町(同)を含めた「広域都市構想」を発表。
  • 1966年 堺市・泉大津市・和泉市の3市議会が合併案を議決。3市による合併協議会が設立(高石町は単独市制施行の道を選び、忠岡町は合併の利点がないとして加わらず)され、3市長も合併協定書に調印。
  • 1966年 泉大津市の久保泰雅市長(社会党)と市議6人が合併汚職で摘発。
  • 1967年 泉大津市の久保市長が辞任。その後行われた市長選で、合併反対派の茶谷徳松が当選。
  • 1967年 泉大津市・和泉市で合併反対運動が激化。大阪府が合併不認可を表明し、3市合併は白紙に。
  • 1967年 人口が50万人を超える。

模索期(合併白紙の余波)

  • 1971年 河盛市長が引退。民社党などが推した土師半六が市長に当選。
  • 1972年 人口が60万人を超える。
  • 1972年 土師市長、浪速医科大学(仮称、不認可)誘致にからんだ汚職事件で逮捕。出直し選挙で我堂武夫が市長に当選。
  • 1974年 人口が70万人を超える。

発展期(合併せず単独で移行めざす)

  • 1976年 堺市が庁舎問題等審議会を設置。
  • 1976年 我堂市長が政令指定都市昇格を正式に表明。
  • 1983年 人口が80万人を超える。
  • 1983年 堺市が指定都市準備室を設置。
  • 1983年 堺市議会が指定都市問題対策特別委員会を設置。
  • 1983年 仙台市千葉市・堺市の3市で「事務連絡協議会」設立。3市揃っての政令指定都市移行を目指す。
  • 1984年 田中和夫が市長に当選。
  • 1986年 人口が81万9000人となり過去最高を記録。以後減少に転じる。

混迷期(支所制度の導入)

  • 1989年 田中市長が急死。幡谷豪男が市長に当選。
  • 1991年 市内を6地区に分割した支所制度を導入。支所区域名称選定委員会が「堺・中・東・西・南・北」を選定。
  • 1991年 堺市役所高層館が完成。
  • 1992年 東百舌鳥出張所(大野芝町)、深井出張所(深井中町)、八田荘出張所(八田寺町)、泉ヶ丘出張所(東山)を廃止して、中支所(深井沢町)が開所(実質的に深井出張所が中支所に昇格)。
  • 1993年商工会議所が堺市指定都市問題懇話会設立。
  • 1993年 堺市が東京事務所を開設。
  • 1994年 堺市が指定都市対策室を設置。
  • 1995年 上神谷出張所(片蔵)、美木多出張所(美木多上)、泉北ニュータウン東出張所(茶山台)、泉北ニュータウン中出張所(原山台)、泉北ニュータウン西出張所(鴨谷台)を廃止して、南支所(桃山台)が開所(実質的に泉北ニュータウン中出張所が南支所に昇格)。
  • 1995年 堺市・美原町広域行政課題連絡協議会設置。

転換期(中核市へ移行)

  • 1996年 中核市制度施行。中核市へ移行した12市(宇都宮市新潟市富山市金沢市岐阜市静岡市浜松市、堺市、姫路市岡山市熊本市鹿児島市)のうち、堺市は最大の人口を擁する都市として、「第1回中核市サミット」の開催地に選ばれる。
  • 1996年 堺市指定都市問題懇話会が改組され、堺市指定都市推進協議会を設立。
  • 1996年 浜寺出張所(浜寺諏訪森町中)、鳳出張所(鳳東町)、津久野出張所(津久野町)、福泉出張所(草部)を廃止して、西支所(鳳東町)が開所(実質的に鳳出張所が西支所に昇格)。
  • 1997年 人口が80万人を割る。
  • 1997年 南八下出張所(菩提町)、日置荘出張所(日置荘西町)、登美丘出張所(大美野)を廃止して、東支所(日置荘原寺町)が開所(実質的に日置荘出張所が東支所に昇格)。
  • 2000年 五箇荘出張所(新堀町)、金岡出張所(金岡町)、百舌鳥出張所(百舌鳥赤畑町)、北八下出張所(中村町)、新金岡出張所(新金岡町)を廃止して、北支所(新金岡町)が開所(実質的に新金岡出張所が北支所に昇格)。
  • 2000年 神石出張所(石津町)を廃止して、堺市役所旧本館に堺支所(南瓦町)が開所(実質的に本庁への統合)。6支所体制が完成する。

進展期(再び合併で移行めざす)

  • 2001年 国の「合併支援プラン」で「2005年3月までに大規模な合併が行われた場合には、政令指定都市の弾力的な指定を検討する」と緩和の方向が打ち出される。
  • 2001年 木原敬介が市長に当選。
  • 2002年 堺市・高石市合併問題研究協議会を設置。
  • 2003年 高石市、大阪狭山市、美原町に合併を申し入れ。
  • 2003年 堺市・美原町合併協議会を設置。
  • 2003年 高石市長選で合併反対派の阪口伸六が当選。堺市・高石市合併問題研究協議会が解散。
  • 2003年 大阪府と堺市が「政令指定都市移行連絡準備会議」を設置。
  • 2004年 堺市役所新庁舎(本館)が完成。堺支所が移転する。
  • 2004年 大阪府と堺市が「政令指定都市移行連絡会議」を設置。
  • 2005年2月 美原町を編入合併(美原支所設置)。人口が80万人を超える。
  • 2005年3月 堺市議会が「堺市の政令指定都市の実現に関する意見書」を可決。
  • 2005年5月 大阪府と「事務移譲等に関する確認書」を締結。
  • 2005年5月 大阪府議会が「堺市の政令指定都市の指定に関する意見書」を可決。
  • 2005年10月 政令指定都市移行が閣議決定。
  • 2005年12月 区名が正式決定。
  • 2006年4月 政令指定都市移行・区制(堺区中区東区西区南区北区美原区)施行。

行政[編集]

市長[編集]

  • 竹山修身(たけやま・おさみ) - 任期:2009年10月8日 - 2013年10月7日

歴代市長[編集]

  • 任命市長
    • 一樋作兵衛(1889年4月 - 1893年8月)
    • 北田豊三郎(1893年10月 - 1896年2月)
    • 大西五一郎(1896年2月 - 1905年10月)
    • 宮本通義(1906年3月 - 1910年2月)
    • 斉藤研一(1910年11月 - 1912年12月)
    • 熊野秀之輔(1913年1月 - 1917年1月)
    • 斉藤研一(1917年6月 - 1926年11月)
    • 森本仁平(1926年12月 - 1933年1月)
  • 名誉職市長 - 無給奉仕の市長
    • 河盛安之介(1933年4月 - 1946年5月)
  • 公選市長
    • 南治好(1946年8月 - 1947年1月)
    • 山口勝(1947年4月 - 1951年4月)
    • 大塚正(1951年4月 - 1955年4月)
    • 河盛安之介(1955年5月 - 1971年4月)
    • 土師半六(1971年5月 - 1972年10月)
    • 我堂武夫(1972年11月 - 1984年1月)
    • 田中和夫(1984年2月 - 1989年8月)
    • 幡谷豪男(1989年10月 - 2001年9月)
    • 木原敬介(2001年10月 - 2009年10月)
    • 竹山修身(2009年10月 - )

名誉市民[編集]

  • 河盛安之介(市長)
  • 我堂武夫(市長)

行政区[編集]

ファイル:Sakai-city kuiki.png

堺区 北区
西区 中区 東区 美原区
南区

次の7区が設置されている。詳細は各区の項を参照のこと。

行政区施行に伴い、堺市議会(定数52、法令定数より4人少ない)および大阪府議会の旧堺市選挙区(定数10)は、以下のように分割された。

市議会 府議会
堺区 9 2
中区 8 1
東区 5 ½
西区 8 2
南区 10 2
北区 9 2
美原区 3 ½

½: 東区と美原区で定数1

産業[編集]

主な商業地[編集]

堺区中心部[編集]

堺東駅

小規模ではあるが堺市の繁華街とされ現在は高島屋、堺銀座商店街、ジョルノを中心に数多くの商店が集積している地域である。かつてはダイエーイズミヤ長崎屋ニチイユニードなど数多くの総合スーパーが堺東駅前に集積していたが、バブル崩壊とともにその多くの店舗が相次いで閉店し、かつての賑わいは衰退している。

高島屋 
1964年、大阪市外で最初の百貨店として開店。堺東駅ビルの改築工事の一環として入居した。1984年に開業20周年を迎え店内を改装。店舗を拡張して「アップル専門店街」を併設した。以後、高島屋とアップル専門店街で「堺タカシマヤショッピングセンター (SC) 」を構成する。2002年にアップル専門店街を高島屋が統合する形で新たな「高島屋堺店」となり、ソフマップをテナントに入れるも2年で撤退。現在はユニクロABCマートなどをテナントに入れており、最上階にはハローワークが入居している。なお地下レストラン街は、現在もアップルの名称やロゴ(upル)をそのまま使用している。
ジョルノ 
戦後の闇市を起源とする「堺中央マーケット」の老朽化が進んだため、1981年に行政と組合が開発主体となり再開発ビル「ジョルノ」として生まれ変わった。開業以来、核店鋪にはダイエーが入居していたが2001年に閉店。その後、核テナントとして生鮮館PASTO、キャップ書店、ダイソーなどが入居していたがいずれも2011年で閉店した(ハローワークも入居していたが、2011年に高島屋堺店の最上階に移転)。堺東駅とはペデストリアンデッキで結ばれている。
堺銀座商店街 
明治時代に高野鉄道が開通した時からある古い商店街。戦中、堺東に市役所など官庁が移転してきたことや、旧市内の商店が空襲に遭い打撃を受けたことで、堺の中心商店街としての地位が高まった。1953年アーケード(ビニール式)が完成。1988年にはモスク型のアーケードに生まれ変わった。ここ数年は、堺市の支所制度導入に伴う堺東の地位低下や郊外型ショッピングセンターの開業が相次いだこともあり、かつてのようなにぎわいはない。人気フォークデュオコブクロがインディーズ時代に路上ライブを行っていた地でもある。一時、空きビルに場外馬券場を誘致しようという動きがあったが、住民の反対運動により計画は潰れた。
宿院駅
江戸時代から宿院頓宮開口神社鳥居前町として栄えた。明治時代には劇場街となり、なかでも「卯の日座」は堺最大の劇場として有名だった。1891年には新派川上音二郎一座が書生芝居の旗揚げ興行を行ったほか、曾我廼家五郎も一座を旗揚げ後、「卯の日座」で最初の興行を行った。山之口商店街は、戦前までは「堺の心斎橋」と称され、「電気館」など映画館も数多くあり大いににぎわったが、戦後は衰退の一途である。また、大小路筋を挟んで北側の通称「天神」は、菅原神社の鳥居前町として歓楽街を形成。現在も飲食店が軒を連ねる。
堺駅
1985年に現在地に移転、高架駅となるまでは、現在の南口に駅舎があった。1986年イトーヨーカドーが駅前に出店(関西1号店)したが2011年2月13日に閉店。駅ビルに隣接する商業ビルは、入居する核テナントの誘致計画(西武百貨店やダイエー系のプランタンなど)がことごとく頓挫し、高架駅にしては不釣合いな駅舎のまま長年放置されていた。結局、南海電鉄ミドリ電化紀伊国屋書店旭屋書店を経て、現在はTSUTAYA)、食品スーパーのエース新鮮館などからなる自前の複合商業施設「PLATPLAT(プラットプラット)」を2000年に開業した。1993年には西口にリーガロイヤルホテル(現在のホテル・アゴーラ リージェンシー堺)が開業。大阪市営バスも乗り入れるようになった。

堺区・北区[編集]

堺市駅 
ベルマージュ堺イズミヤ)、堺市駅商店街

(北区)

北花田駅 
イオンモール堺北花田阪急百貨店イオン
新金岡駅 
エブリー(イオン)、ドン・キホーテ

西区[編集]

津久野駅 
グルメシティ、イトーヨーカドー、デイリーカナート
鳳駅 
おおとりウィングス(ダイエー)、鳳本通商店街、アリオ鳳(イトーヨーカドー)

中区[編集]

深井駅 
深井プラザ、グルメシティ

南区[編集]

泉ヶ丘駅 
パンジョ(高島屋)、ショップタウン泉ヶ丘、ジョイパーク泉ヶ丘トイザらスベビーザらスしまむら
栂・美木多駅 
ダイエー、クロスモール(イズミヤ、TOHOシネマズ
光明池駅 
アクト、サンピア、(ダイエー、イオン、コムボックスの所在地は和泉市

(東区)

北野田駅 
ライフ、ダイエー、ベルヒル北野田(サンプラザ

中百舌鳥副都心計画[編集]

1982年に発表された大阪府の総合計画で、豊中市千里中央東大阪市荒本とともに、堺市の中百舌鳥が「大阪府の新都心」として位置付けられることになった。1983年には堺市も総合計画を発表し、中百舌鳥を「堺市の副都心」として位置付けた。ちょうど中百舌鳥にあった日本ピローブロック製造の本社工場が美原町(当時)に移転することになり、その跡地に大規模商業施設を誘致することも計画に盛り込まれた。同時に堺市役所の本庁機能の中百舌鳥移転も計画されたが、現本庁のある堺東駅周辺の商店会などから、同駅周辺の経済が地盤沈下することを理由に強い反対を受けて頓挫している。1987年4月に地下鉄御堂筋線が中百舌鳥まで延伸されたことを機に区画整理事業が始まった。大規模商業施設への出店を募ったところ、そごう西武百貨店阪急百貨店などが入札に参加した。設計競技段階では西武が落札したが、駅周辺の土地を先行取得していたそごうが西武への土地提供を拒否。「そごう所有地」の看板を掲げて、西武と縄張り争いのようになった。一方、堺市はなかなか進まない事業を後押しするため1991年、「第三次堺市総合計画」で、改めて中百舌鳥を新都心として位置付けるなど事態の収拾に乗り出したが、1992年に西武は「業績悪化」を理由に中百舌鳥進出を断念。事業からの撤退を表明した。バブル崩壊により、そごうも1993年、中百舌鳥からの撤退を表明。再開発事業は失敗に終わった。その後、西武とそごうは「ミレニアムリテイリンググループ」(→そごう・西武)として経営統合され、現在に至る。堺市にとっては何とも皮肉な結果となった。これらの経緯から、近年まで中百舌鳥駅北側は更地が多かったが、2002年になって駅前にロータリーが完成した。大規模計画がすべて頓挫したことによって、駅周辺には無秩序にマンションや商業ビルが林立している。

都市再生緊急整備地域[編集]

都市再生の拠点として国が定めたもので、都市開発事業などを通じて重点的に市街地整備を推進すべき地域とされている。堺市内では以下の3地域が指定されている。

堺臨海地域 
新日本製鐵堺製鐵所高炉休止・事業所縮小(1990年)によって生じた遊休地を開発する計画。堺市は「臨海新都心」(愛称・堺浜)と位置づけ、マリーナ、海とのふれあい広場、干潟などを整備している。2006年3月21日に「堺浜シーサイドステージ」の第1期工事が完成。シネコンなどを備えた大型複合施設(堺浜えんため館)も同年4月15日に開業した。また、2010年には天然芝のサッカーグランドやクラブハウス、宿泊施設を備えた西日本初のサッカー・ナショナルトレーニングセンター「J-GREEN堺」が完成した。将来的にはLRTの乗り入れも検討されており、堺製鐵所の敷地内には「トランスロール」堺浜試験線が引かれている。なお、新日本製鐵は当初、堺製鐵所の遊休地にアメリカのユニバーサルスタジオを誘致することでユニバーサル社と話を進めていた。かねてより日本進出を目論んでいたユニバーサル社と北九州市スペースワールドを開業したノウハウを持つ新日本製鐵の思惑が合致したためだが、交通の便の悪さを理由に合意が得られなかった。
堺東駅西地域 
大きく3地区の開発計画がある。(1)裁判所庁舎の建て替え工事など官庁街の整備、(2)銀座商店街南側に市民ホールなどを備えた再開発ビル建設、(3)(西地域ではないが)駅東側の車庫跡に高層マンション建設、である。このうち、(3)は完成、(1)も一部が完成している。堺東駅前はジョルノが1981年に開業して以来、市役所を除いてほとんど変化がない。むしろ寂れる一方で、1990年代にはスーパー(長崎屋イズミヤニチイ)の撤退が相次いだ。堺市の玄関駅でもあり、最も開発が急がれている地域である。
鳳駅南地域 
東急車輛工場跡地に、高層マンションとシネコンなどが入った大型複合商業施設「アリオ鳳」(イトーヨーカドーが中核)が完成した。反面、鳳駅は阪和線でも重要な駅の一つだが「駅前」と呼べるものがないに等しく、今後は駅前ロータリーの整備が検討されている。

伝統産業[編集]

  • 刃物包丁など)
    堺の刃物は堺打刃物と呼ばれ、高い技術で有名である。堺の包丁は料理人などが使う業務用包丁のシェアは9割を超えるが、一般用包丁では1割未満である。これは錆びないステンレス製の包丁が広まり、手入れのかかるものは使われなくなったためである。昨今では、世界の有名シェフが使っていることから、海外での人気も高まっている。
  • 線香
    堺の線香の生産量は戦前まで3割以上のシェアを占めており、全国一だった。しかし、戦後は中国などからの安価な輸入品や他業種の新規参入などで徐々に減り、最近ではシェアは12 - 13%、年間生産量は約1,000トン、年間生産額は約30億円で推移している。事業所数も戦前は市内に60か所以上あったが、今は約15か所となっている。これは家庭などから仏壇が消えて消費量が減ったことも一因である。
  • 堺五月鯉幟
  • 堺和ざらし浴衣
  • 昆布(酢昆布など)
  • 堺土人形
  • 自転車
  • 家具木材(大阪木材工場団地)
  • 堺式手織緞通(敷物、日本敷物団地)
  • 和菓子
    阪堺線宿院駅を中心に花田口駅から御陵前駅にかけて、肉桂餅・けし餅・大寺餅・天神餅・くるみ餅など老舗の和菓子屋が数多く集まっている。阪堺線浜寺駅前には浜寺公園の松に由来する明治時代からの銘菓・松露だんごがある。
  • 地酒
    江戸時代中期から戦前まで堺市は、神戸市に次ぐ全国第2位の酒造地だった。主な銘柄には「金露」「都菊」「菊泉」などがあった。なかでも「金露」は江戸時代から続く老舗銘柄で、堺一の名酒と評判が高かった。しかし、戦災で酒蔵が焼けたり、河川の濁りが激しくなったりしたことなどから、「金露」をはじめ堺の酒造会社は戦後、灘へ移転。堺市内の酒造会社はなくなった(ただし、美原区に「梅林」という地酒がある)。なお、「金露」は1995年阪神・淡路大震災で機械設備の破損など大きな打撃を受けたため、経営が悪化。1997年に廃業している(キング醸造が「金露」銘柄を継承)。またアサヒビールは、堺の酒造家・鳥井駒吉1889年に設立した大阪麦酒が前身である。
  • 鉄砲
    戦国時代より、火縄銃の生産が盛んであった。このとき培われた鉄の筒を作る技術が、自転車のフレーム(車体)作りの技術に応用され、堺の自転車生産の原動力になったとも言われている。

堺市に本社を置く企業[編集]

上場企業[編集]

非上場企業[編集]

堺市に拠点・事業所を置く企業[編集]

漁業[編集]

  • 堺出島漁港 - とれとれ市
  • 石津漁港
  • 堺魚市場

農業[編集]

  • 鉢ヶ峯健康朝市「コスモス館」
  • フォレストガーデン

地域[編集]

人口[編集]

平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.32%増の841,966人であり、増減率は府下43市町村中10位。区別では最高が3.76%増の北区、最低が1.48%減の南区。

教育[編集]

  • 小中学校と高等学校、その他の学校については、各区の記事を参照のこと。

大学[編集]


短期大学[編集]


学校教育以外の教育施設[編集]

自動車教習所

スポーツ[編集]

野球[編集]

プロ野球[編集]
社会人野球[編集]

都市対抗野球大会出場チーム

相撲[編集]

大相撲[編集]

大相撲春場所(大阪場所)が難波大阪府立体育会館で行われるため、距離的に近い堺市に場所中、以下の部屋が宿舎を構える。

かつて堺に宿舎を構えていた部屋

堺出身力士

学生相撲[編集]

大浜は学生(アマチュア)相撲発祥の地である。1919年、旧大浜相撲場で第1回全国学生相撲大会毎日新聞社主催)が開かれた。その後、東京に主会場を変更したが、1974年から開催地が再び大浜に戻った(当初は大浜体育館の特設土俵)。1981年には大相撲と同じ規格の「大浜公園相撲場」が完成。現在、全国学生相撲選手権大会は、東京の両国国技館と隔年ごとに開催されている。なお、大浜公園相撲場は女子も土俵に上がることができる。

大浜公園相撲場で開かれる主な大会

水泳[編集]

堺市には臨海工業地帯が造成されるまで海水浴場が4か所(大浜・湊・諏訪ノ森・浜寺)あった。なかでも浜寺は、海浜リゾート地として全国に名を知られていた。現在でも諏訪ノ森から浜寺公園にかけての一帯は、大仙公園周辺とともに「風致地区」に指定されている。また愛知県碧南市にはかつて、浜寺の白砂青松にあやかった「新浜寺海水浴場」があり、海岸が埋め立てられた今も「浜寺町」の地名が残る。泉大津市にも1960年代半ばまで「南浜寺」という地名が存在した(現在の松之浜町)。近くに助松海水浴場があり、「浜寺」ブランドにあやかった別荘地として知られた。現在も区画整理された町割に邸宅が点在する。

浜寺水練学校
浜寺水練学校は1905年毎日新聞社が浜寺海水浴場開設と同時に海泳練習場として開校、100年の歴史を誇る。現在は浜寺公園プールを使用。クロール平泳ぎなど基本泳法のほか、日本泳法も指導する。また、浜寺は日本のシンクロナイズドスイミング発祥の地であり、1950年代からシンクロを指導していた。

スポーツイベント[編集]

現在、大津市の皇子山陸上競技場をスタート・ゴールに行われている「びわ湖毎日マラソン」と、京都市西京極陸上競技場をスタート・ゴールに行われている「全国高等学校駅伝競走大会」は1960年代まで大阪で開催しており、堺市内もコースに含まれていた。両大会とも毎日新聞社主催のため、堂島の旧毎日新聞本社前を発着点にしていた時期もあった。現在の国道26号府道堺阪南線をコースに使用していたが、交通渋滞などのため、いずれも変更された。

芸術[編集]

音楽[編集]

文芸[編集]

芸術行事[編集]

  • 利休忌(南宗寺。毎年2月下旬。千利休を偲ぶ)
  • 白桜忌(覚応寺。毎年5月29日与謝野晶子を偲ぶ)
  • 坂田三吉名人杯将棋大会(毎年5月に開催。個人参加の大会では国内最大の参加者を誇る)
  • 堺市美術新人展(6月。堺市立文化館)
  • 堺市展(10月。堺市立文化館)
  • みはら芸術展(11月。美原中央公民館)

隣接している自治体・行政区[編集]

交通[編集]

鉄道[編集]

市内には以下の鉄道路線がある。中心駅は市役所最寄駅である南海高野線堺東駅。堺市内を走る鉄道は、全てが大阪市から郊外へ南北に縦断する路線で、東西方向の交通はバスに依存している。そのため、かねてより東西方向を結ぶ鉄軌道の導入が構想されていた。地下鉄なども候補に挙がっていたが、木原市長時代に堺東駅から南海本線堺駅を経て堺浜方面へ向かうLRT(超低床電車による次世代路面電車)の導入が決定した。しかし、LRTの建設中止を公約に掲げて2009年に就任した竹山市長は2010年1月、公約通り、南海電鉄に対してLRT計画の中止(事実上の白紙撤回)を申し入れた。計画予算も調査費用の300万円を残して削減。計画は暗礁に乗り上げた。これにより、LRT計画による活性化が見込まれていた阪堺電気軌道阪堺線も堺市内区間廃止の可能性が高まったが、堺市は2010年から10年間にわたり、運賃割引などの利用促進策に年間2億円を上限に補助するほか、新型車両の導入などに総額30億円を助成する支援策を公表した。

大阪モノレールの堺への延伸計画[編集]

大阪モノレールは大阪中央環状線上を通り、大阪空港堺泉北臨海工業地帯を結ぶ路線として1970年代後半に計画。1980年に運営母体となる大阪高速鉄道が設立された。また、大阪府が計画した3大副都心地区「千里中央」「荒本」「中百舌鳥」(厳密には新金岡)を繋ぐ目的もあった。当初は大阪空港側と堺側から同時に着工する計画だったが、建設費などの問題から大阪空港側のみの着工となった(堺側は中央分離帯にフェニックスが植えてあるため、着工するには伐採する必要があった)。1990年に千里中央 - 南茨木間が開業し、現在は大阪空港から門真市まで開通しているが、南伸計画は今のところない。堺市の積年の課題である「東西交通の不備」は、このモノレールに期待を寄せていたことも原因のひとつとしてある。

バス[編集]

路線バス[編集]

市内交通のほとんどは南海バスが担っている。南海高野線堺東駅のほか、南海本線堺駅泉北高速鉄道線泉ヶ丘駅などにターミナルを持つ(北区の一部や美原区内の路線は、南海バスの子会社である南海ウィングバス金岡が担当している)。また、美原区や東区内には近鉄南大阪線河内松原駅などをターミナルとする近鉄バスが運行されている。このほか、かつて大阪市電が乗り入れていた関係で、堺区には大阪市営バスも乗り入れている[1]。堺市自体には公営交通(市営バス)の運行実績がなく、現在も市営バスはないが、南海バスと近鉄バスに業務委託しているコミュニティバス(堺市ふれあいバス・みはらふれあい号)はあり、各区役所や老人福祉センターを拠点に各区域を循環している。乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券方式の区間制。なお、堺シャトルバスのみ乗降方式は前乗り後降り前払いで、運賃は均一制である。南海バス・近鉄バス・大阪市営バスともに磁気プリペイドカードであるスルッとKANSAI対応カードが使用できる。非接触型ICカードPiTaPaICOCAが大阪市営バスのみ使用可能。

高速バス[編集]

南海バス運行便には「サザンクロス」、和歌山バス運行便には「サウスウェーブ」の愛称が付く

エアポートリムジンバス[編集]

深夜急行バス[編集]

  • 南海バス - 南海深夜急行バス
    • 出発 - 梅田なんば・南海高野線堺東駅
    • 到着 - 南海高野線堺東駅・三国ヶ丘駅中百舌鳥駅・泉北高速鉄道線深井駅・泉ヶ丘駅・栂・美木多駅・光明池駅 ※堺東駅については乗車・降車ともに可能。
    • 出発 - 南海高野線中百舌鳥駅・泉北高速鉄道深井駅
    • 到着 - 泉北高速鉄道線深井駅・泉ヶ丘駅・栂・美木多駅・光明池駅 ※深井駅については乗車・降車ともに可能。

自動車[編集]

2006年10月10日より、自動車登録番号標・車両番号標(ナンバープレート)の地名表示が和泉からへ変更された。いわゆるご当地ナンバーを、2005年7月に国土交通省が新たに認定したため。10月10日以降に和泉自動車検査登録事務所(和泉市)で新車購入時の新規登録をするか、他地域からの編入や名義変更などの際に取得できる。

道路[編集]

有料道路[編集]

道路の愛称[編集]

堺市内の道路には以下のような愛称が付けられている。

船舶[編集]

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事[編集]

公園・緑地[編集]

道・旧街道[編集]

歴史的建造物[編集]

社寺[編集]

古墳[編集]

堺市内の銅像[編集]

祭事・行事[編集]

報道機関・出版・放送局[編集]

新聞社[編集]

出版社[編集]

  • 堺泉州出版会(『堺泉州』『堺人』を発行)
  • 関西鉄道研究会(『関西の鉄道』を発行)
  • はとぶえ会(『はとぶえ』を発行。堺市内の小学生の作文習字などを掲載している)
  • 曙出版 - 東湊にあったカストリ雑誌専門出版社。伝説の雑誌『奇譚クラブ』の最初の発行元である。

書店[編集]

文学賞[編集]

  • 自由都市文学賞 - 市制100周年を記念して1989年に制定。主題は「都市小説」である。選考委員は田辺聖子藤本義一眉村卓難波利三。受賞作品は読売新聞(大阪版)に掲載される。
  • 与謝野晶子短歌文学賞 - 産経新聞と堺歌人クラブ主催。「一般の部」と「青春の歌の部」がある。

ラジオ局[編集]

ケーブルテレビ局[編集]

ラジオ送信所[編集]

堺市を舞台とする作品[編集]

テレビドラマ[編集]

  • 黄金の日日』(城山三郎
    1978年に放送された16作目のNHK大河ドラマ。城山三郎の原作を市川森一が脚本化。主役の呂宋助左衛門市川染五郎(現在の松本幸四郎)が演じた。大河ドラマで初めて町民が主役になった作品で、戦国時代の堺を舞台に貿易商人の活躍を描いた。
    堺市にはこの作品の放映直後から、呂宋助左衛門ゆかりの南宗寺大安寺を中心に観光客が押し寄せた。堺市は空襲で大きな被害を受けたため、戦後の旧市内は昔の面影をほとんど残しておらず、古い歴史を持ちながらも「観光地」という自覚は官民ともに希薄であった。放映より5年前の1973年に紀行文集『街道をゆく』の取材で堺を訪れた司馬遼太郎も、「現在の堺を見ても中世に輝きを放った自由都市を思い描くことができない」と記している。
    このため、堺市は急遽、「黄金の日日・観光ルート」という案内板を旧市内の数か所に建て、観光客向けに対応したが、堺の「観光」は「○○跡」などの石碑巡りが中心のため、繰り返し訪れるほどの魅力はないに等しかった。実際、ドラマの放映が終了すると堺を訪れる観光客は激減した。堺市が「観光」を全面に押し出したのはこの頃からで、先の案内板に代わる「てくてくろーど」という観光ルートを作成したり、「おいでよ堺へ」キャンペーンを実施したりするなど、観光客の誘致を図っていたが、集客にはつながらなかった。しかし、政令指定都市移行に先駆け平成17年から観光部を新たに設置。旧市街地及び仁徳天皇陵周辺エリアを重点エリアとし、市内外からの集客促進事業や情報発信を実施し、新たな観光施策の推進を図っており、それに伴い堺観光に訪れる来訪者も増加しつつある。

小説[編集]

  • 『秀吉と利休』(野上弥生子
  • 『本覚坊遺文』(井上靖
  • 堺事件』(森鴎外
  • 『堺港攘夷始末』(大岡昇平
  • 行人』(夏目漱石
    「三人は浜寺で降りた。この地方の様子を知らない自分は、大きな松と砂の間を歩いてさすがに好い所だと思った。しかし岡田はここでは「どうです」を繰返さなかった。お兼さんも洋傘を開いたままさっさと行った。「もう来ているだろうか」「そうね。ことに因るともう来て待っていらっしゃるかも知れないわ」。自分は二人の後に跟いて、こんな会話を聴きながら、すばらしく大きな料理屋の玄関の前に立った。自分は何よりもまずその大きいのに驚かされたが、上って案内をされた時、さらにその道中の長いのに吃驚した。三人は段々を下りて細い廊下を通った。」
  • 』(谷崎潤一郎
    同性愛を題材に、「美」に盲目的に崇拝して、その「美」に翻弄され、虐げられていく人々を描いた作品。作品の主な舞台は谷崎文学の「西の拠点」ともいうべき芦屋・岡本(神戸市)周辺と大阪だが、最後の場面に浜寺海水浴場が登場する。作品が発表された1928年は、阪神間モダニズムが花開いた時期と重なるが、作品に浜寺が登場するのは、阪神間に次ぐ関西モダニズムの一翼を担っていた点を意識したのではないかと考えられる。
  • 『雪たたき』(幸田露伴
  • 日本永代蔵』(井原西鶴
    「比津(堺)は長者のかくれ里、根の知れぬ大金持ちその数知らず、(中略)堺は始末で立つ、大坂はばっとして世を送り(以下略)」(堺には大金持ちはたくさんいるが、積極的な商売をせず、倹約家が多い。大坂は派手に世を送る人(=金遣いが豪快)が多い)。江戸時代の堺と大坂の力関係や住民気質を表している。

落語[編集]

  • 『さかい夢』
  • 『堺飛脚』
  • 『妙国寺の蘇鉄』
  • 『高野駕籠』
  • 『戒名書き』

漫画[編集]

アニメ[編集]

舞台ではないがモデルとなった作品[編集]

堺市に関連する有名人[編集]

堺市出身者[編集]

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や行

ら行

わ行

堺市にゆかりのある有名人[編集]

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や行

わ行

脚注[編集]

  1. かつてはあべの橋方面から堺東駅への路線もあったが、2012年現在は住之江公園から堺駅までの路線のみ。
  2. 一等三角点 大浜公園 - 国土地理院測地部

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

行政[編集]

観光[編集]

その他[編集]

テンプレート:日本の政令指定都市 テンプレート:大阪府の自治体