忍者

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忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代日本で、大名領主に仕え諜報活動暗殺を仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。

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歌川国芳の浮世絵に描かれた『児雷也豪傑譚』の主人公・児雷也。想像で誇張された忍者の典型

概要[編集]

領主に仕えての隠密行動を主体とする集団。武士足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。

「全身の衣装」「その中には鎖帷子を纏い、顔にはを塗っている」「背中に」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。現存する「忍び装束」とされる物も、ほとんどが柿色系統である。黒色よりも柿色の方が安価に製造できたからとする説もある。この衣装は、元々は甲賀地方(現在の滋賀県南東部)や伊賀地方(現在の三重県西部)で使われていた野良着が元とする説がある。また、「専用の」装束などは着用せず、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好)を用いており、黒装束については、歌舞伎などに登場させる際に黒子のように観客に対して「見えない存在であること」を表現したものが後に、現実にもそのような格好で活動していたと誤認されたとする説もある。

戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は少しでも身軽になるように重い鎖帷子は着用しない。 漫画表現として鎖帷子を簡略に描いているうちに網シャツを着たキャラクターデザインに発展した。背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、大半は普通の武士のように腰に下げていた。ただし床下にもぐりこむときは狭い所でも動き易くするため、また刀自体を盾代わりとするために背負っていた。様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と言う。

忍術には「陰忍」と「陽忍」がある。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。古武術には忍術の名残りが見られるものもある。

近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。

忍者は上忍、中忍、下忍と身分が分かれている。上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配している。中忍は下忍達を率いる小頭である。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされている。実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったといわれている。伊賀流は個人技、甲賀流は集団技に優れていた。

戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義白土三平司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として使ったと伝えられる。ちなみに任務は蘇我氏などの有力豪族の偵察だった。

江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「草」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「かまり」「早道の者」などがある。

現在女性の忍者のことを「くノ一(くのいち)」(“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現)とする表現が一般的である。異説として鼻、目、耳、へそ、肛門などの人体にある九つの穴(鼻は一つの穴と数える)に加え、女性は穴が一つ多いことから「九の一(くのいち)」として呼んだという説も存在する。しかし穴の数え方が資料によってまちまちのため(例えば、へそではなく尿口を数えるなど)の説もあり、信憑性は今ひとつである。また「くのいち」という呼び方自体が山田風太郎の創作とする説もある。「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するが、忍者を題材にした映像作品や漫画作品などで登場するような女忍者は存在しなかったとも言われる。しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したという記述も残っており、女中達の「女の噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。また史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団がある。詳細はくノ一の項が詳しい。

歴史[編集]

発祥と変遷[編集]

忍者という存在の発祥については諸説ある。日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園だったため守護地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。

大久保彦左衛門の三河物語の記述[編集]

徳川家康が桶狭間合戦後に今川氏から独立し、三河国奪還戦争のさなか、蒲郡市にある鵜殿長持の西之郡城(上ノ郷城)を忍で取る、と記載されている。寛文7年(1667年)の近江国甲賀武士が奉行に差し出した書状には、甲賀21家が援軍として駆け付け、夜襲・焼き討ちにより、鵜殿藤太郎の首を討ち取った武功について記載。伊賀ではなく、甲賀であることも注目される。

服部氏伝説[編集]

昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽()役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。

伊賀国では、藤林百地服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州根来へと落ち延びたと言われる。

徳川幕藩体制下[編集]

伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。御庭番は忍者と同様に思われがちだが、誤りであり八代将軍・徳川吉宗紀州から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、彼ら御庭番は忍者とはかかわりがない(詳しくは御庭番の項を参照されたい)。

徳川家光家光体制)時、老中松平伊豆守阿部忠秋堀田正盛)、側衆中根正盛)は、武断政策を強行に進めた。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱慶安事件由井正雪)といった大規模な事件(一揆)が発生する。 島原の乱・慶安事件の際に大目付として中根正盛が与力20余騎を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせた。 また、島原の乱の際には、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し、一揆軍の兵糧が残り少ないことを確認したという記録が残っている。

桓武平氏の流れを汲む中根氏服部氏は縁戚関係であり、中根は長安事件に連座して失脚した服部正重(4代目服部半蔵)の叔父にあたる。このことから、中根は忍者だという説がうまれた。

江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者だった。そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われている。その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられる。当時の江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。これらの説には決定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇を出ない。

江戸時代の探検家・間宮林蔵は、幕府の隠密であり、広義には彼も忍者だと言える。少なくともシーボルト事件において高橋景保を売ったという彼の行動は儒教道徳的観点から非難され、冷酷な忍者ならではの行動であると評された。

マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、幕府の隠密が早速調査のために行動しており、これがいわゆる忍者の活動の最後だった。


明治後の忍者[編集]

その後明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、近代化により日本陸軍日本海軍が創設され、忍者達はその役目を終えることになる。活躍のできる場を失った忍者達はその後、農業や警察関係(警察官)の職業、火術の特技を活かして花火師や、薬の知識を活かして医師薬剤師など、新たな職に就いたとされる。上述の黒船来航以来忍者の存在は忘れられていたが、1950年代後半より、小説や時代劇等に忍者が取り上げられるようになり、再び日本人の間で認知されるようになった。

器具・体術[編集]

忍具[編集]

忍者が用いる武器・道具である。

  • 鉤縄
  • くない - 「苦無」あるいは「苦内」とも表記される。
  • 手裏剣 - 手投げの刃物。形は棒状のものから十字型、円形のものまである。通常、携帯していた数は一枚から、多くても三、四枚のみだったという。
  • 忍刀
  • 撒菱 - 植物の種を使用したものは食用が可能だった。
  • 五色米 - 赤・青・黄・黒・紫の5色に染めた米。食用ではなく、仲間との連絡の暗号に用いた。

忍装束[編集]

戦闘用に野良着を改造したもので、前述の通り、闇に紛れるため色は黒ではなく茶色に近いものを着用していたとされる。「六尺手拭」を覆面に用いる事もあった。

忍術[編集]

忍者が主に追っ手からの逃走に用いる術である。

五車の術
相手と会話の中で心理を突く話術である。
  • 喜車の術 - 相手をおだてて隙を伺う。
  • 怒車の術 - 相手を怒らせ冷静さを失わせる。
  • 哀車の術 - 相手の同情を誘う。
  • 楽車の術 - 相手を羨ましがらせて戦意を喪失させる。あわよくば相手を味方に引き込める。
  • 恐車の術 - 迷信などを利用し相手の恐怖心につけこみ戦意を喪失させる。
遁術
敵から逃走する際に、敵を足止めする術である。火遁、水遁、土遁、木遁、金遁の五つを特に五遁という。
  • 火遁の術
  • 水遁の術
  • 土遁の術
  • 木遁の術
  • 金遁の術 - 金目の物を撒いて逃げる。敵同士で奪い合っているようなら成功と言える。
  • 虫獣遁の術
天唾の術
獅子身中の術
忍者八門
初見良昭は流派無関係にある必修科目のこととしている)

著名な忍者[編集]

実在した忍者[編集]

実在した人物でも、実体の部分と虚像の部分の両面がある。

忍者だという説のある人物[編集]

現在の忍術の伝承者[編集]

甲賀流忍術の継承者で甲賀流忍術14世。「最後の忍者」と呼ばれ、昭和中期まで生きていた。
甲賀流忍術の伴家忍之伝の継承者で甲賀流伴党21代目を称している。
戸隠流忍術34代目継承者を称している。

現代に忍術を伝えると称している武術家が少数ながら存在する。

文献資料[編集]

忍者を題材にした物語[編集]

並びはあいうえお順。作品発表年が記されているものは年代順。

題材といっても忍術を誇張して表現したものも多く、現実の忍者とはまったくの別物と考えたほうがよいものもある。

小説[編集]

日本映画[編集]

時代劇[編集]

その他の邦画[編集]

国外の映画[編集]

ショー・コスギ作品

  • Enter the Ninja:燃えよニンジャ(1981年
  • Revenge of the Ninja:ニンジャII・修羅ノ章(1982年
  • Ninja III The Domination:ニンジャIII・転生ノ章(1983年
  • Nine Deaths of the Ninja:デス・オブ・ニンジャ(1984年

オリジナルビデオ[編集]

テレビ番組[編集]

時代劇[編集]

特撮[編集]

アニメ・漫画[編集]

コンピュータゲーム[編集]

関連項目[編集]

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