薔薇戦争

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ばら戦争
 
 

薔薇戦争(ばらせんそう、英:Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱1455年5月にヨーク公リチャードヘンリー6世に反旗を翻してから1485年テューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、血族であるランカスター家ヨーク家の間で戦われた権力闘争。ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を紋章としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、薔薇戦争という呼び名については後世のこととされる[1]

ファイル:War of Roses Red.png
ランカスター家の紋章

ランカスター朝の成立[編集]

百年戦争に苦戦するイングランド王リチャード2世(プランタジネット家嫡流 エドワード3世の孫)は王族・諸侯・市民の支持を失い頻発する反乱に悩まされ続けていたが、王家の重鎮で目障りな存在でもあった叔父ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、その子・ボリンブロクを反王党派の中心人物と見なして、ボリンブロクに領地没収と国外追放を命じた。

これに対しボリンブロクは公然と王位移譲を要求して兵を上げ、リチャード2世を捕えて退位を余儀なくさせた。1399年ヘンリー4世を称して即位したボリンブロクは、残存するリチャード2世派や自らの王権を認めない勢力との戦いを継続し、治世の晩年に漸くこれらを平定して国内を安定させた。

1413年、父・ヘンリー4世を継いだヘンリー5世は、治世の初めから国内が安定していたことから一時中断していた百年戦争を再開し、1415年アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯連合軍に大勝した。ヘンリー5世は自らの子孫によるフランス王位継承を認めさせ、ランカスター朝の絶頂期を築いたが突然世を去ってしまう。

薔薇戦争の開始とヨーク朝の成立[編集]

1422年に即位したヘンリー5世の遺児・ヘンリー6世(即位時フランス王兼任)は、ひ弱で精神を病んでいたことから、成長してからも有力者や王妃マーガレット・オブ・アンジューによって国政を左右され続けた。

フランスでの戦況はシャルル7世がイングランド軍を追い詰め、ついに1453年10月19日、イングランド軍の守備するボルドーを攻め落としたことによってイングランド勢力のほとんどがフランスから駆逐されてしまった(百年戦争の終結)。ヘンリー6世の権威は完全に失墜しイングランド国内は再び混乱に陥り、権力の中枢は実力者であったヨーク公リチャード(プランタジネット家支流ヨーク家、エドワード3世の曾孫)に移動していった。

かつてエドワード3世の末裔であるヘンリー4世は、民心の支持を失ったリチャード2世を廃して王位を簒奪した。今、ヘンリー6世は民心の支持を失った。ならば、同じエドワード3世の末裔であるヨーク公リチャードにも、ヘンリー6世を廃して王に即位する権利があるのではないか。

テンプレート:Campaignbox 薔薇戦争

こうしてヘンリー6世とヨーク公リチャードはランカスター派とヨーク派に分かれて激しく対立するようになり、ついに1455年(第1次)セント・オールバーンズの戦いで戦端が開かれた。以後30年間、イングランド国内で血みどろの内戦がくり広げられることになる。

意志薄弱なヘンリー6世に対して1459年9月のブロア・ヒースの戦いで優位に立ったヨーク公リチャードは王位を目前にしたものの、1460年12月のウェイクフィールドの戦いで不覚をとり戦死してしまう。この危機に際してヨーク公リチャードの子エドワードは、一族の有力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルや弟達(クラレンス公ジョージグロスター公リチャード)と結束を固めランカスター派を破ると、ヘンリー6世に退位を迫り1461年11月、エドワード4世を称して即位した。

王位に就いたエドワード4世は、間もなく愛人エリザベス・ウッドヴィルとの婚姻が絡んだ外交問題や政権内の主導権をめぐって、ウォリック伯やその娘婿であったクラレンス公と対立するようになる。ウォリック伯はヘンリー6世の妃マーガレット・アンジューらに主導されたランカスター派に寝返るとエドワード4世を追放し、1470年、ヘンリー6世を復位させた[2]

ウォリック伯の娘婿クラレンス公は密かにヘンリー6世以後の王位継承を望んでいたが、ウォリック伯の別の娘アンがヘンリー6世の継嗣エドワードと結婚したことから、その望みを絶たれ失望して新政権から離脱した。

国外に逃れ反攻の機会を窺っていたエドワード4世とグロスター公はクラレンス公と和解して兄弟3人の結束を確認すると、1471年、イングランドに攻め入りウォリック伯とランカスター派連合軍を破った。王に復帰したエドワード4世は、ランカスター派を徹底的に駆逐すると、かつて自分に反抗したクラレンス公をも粛清し反乱の芽を摘んで国内を安定させた。

テューダー朝の成立[編集]

1483年、再び転機が訪れる。エドワード4世が病死するとグロスター公は、幼いエドワード4世の子・エドワード5世と母后・エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除してリチャード3世として即位した。

リチャード3世の即位によって国内は混乱し各地に反乱が起こった。このころフランスに亡命していたランカスター派のヘンリー・テューダーは、1485年、兵を率いてイングランドに上陸するとボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。ヘンリー・テューダーはエドワード4世の子・エリザベスと結婚してヨーク家と和解すると、ヘンリー7世として即位しテューダー朝を開始、打ち続く戦争と内戦に疲弊し没落しつつあった諸侯を抑えて絶対王政を確立していった。

関連項目[編集]

  • イギリス君主一覧
  • バラ:一つの花に紅白の縞が入るバラの品種に「ヨーク・アンド・ランカスター」というものがある。

注記[編集]

  1. 薔薇戦争という名称は当時は無かった。本名称が普及したのは、1829年に発表されたウォルター・スコットの小説『ガイアスタインのアン(Anne of Geierstein)』以来のこととされる。スコットがこの名称を用いたのは、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー六世 第1部』において、対立する両陣営が寺院で互いに色違いの薔薇を摘むという架空の描写に依拠したものである。
  2. このことから人はウォリック伯をキングメーカーと呼んだ。