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2019年11月28日 (木) 11:08時点における最新版

夏目 雅子
夏目 雅子

夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年12月17日 - 1985年9月11日)は、日本の女優である。本名、西山 雅子(にしやま まさこ)。旧姓、小達(おだて)。其田事務所などに所属していた。

来歴・人物[編集]

1957年12月17日東京都港区旧高樹町の日赤病院に生まれる。六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる。3歳上には兄、10歳下に弟がいた。趣味は毛糸の編物、絵(デッサン)、琴、古い食器収集、俳句(東京俳句倶楽部所属、俳号は海童)、生け花(草月流)。血液型はB型。

六本木の亀甲屋、高輪神奈川県横浜市中区山手と居を移したが、ここはモービル石油の日本支社長の旧宅で敷地は250坪もある豪邸だった。千葉県館山にも別荘を持つなど、後にお嬢さんと呼ばれるに相応しい家庭環境である。

小学3年生のときにテレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志したのが初めで、17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を映画館で見て衝撃をうけ、ソフィア・ローレンに憧れ、本格的に女優を目指すようになった。

東京女学館小学校中学校、高等学校[[卒業。学生時代のあだ名は「ダテピン」。あけっぴろげでテストで悪い点数をとったときに限って「見て、見て」と答案を見せたがるからとのこと。

1976年東京女学館短期大学にそのまま進学してフランス語を専攻するが、入学直後に、父の友人のツテでタオルメーカー内野株式会社(現UCHINO)のコマーシャルに出演。これはデビュー前で最初のテレビ挑戦だったが、厳しい学校であったので、結局、短大は中退することになる。

同年、日本テレビ愛のサスペンス劇場愛が見えますか』のオーディションで486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした。この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった。ただし、このドラマで夏目雅子が演じた役は、「強盗殺人事件を目撃し、犯人に轢き逃げされて失明したヒロインが、自殺を図るが、タクシー運転手がそれを救ってくれ、彼に思いを寄せるようになるが、実はその運転手は犯人の一味だった」という複雑な設定で、ベテランでも難しい盲目の演技を強いられる上に、レイプシーン(内容的には未遂)などもあった。素人女優には厳しすぎる内容である。撮影は難航して前述のようにNG連発、降板も議論されたが、最終的にはプロデューサーの強い意向で強行され、続ける条件として野村孝監督は夏目(当時は小達)にスタッフ宅での合宿を命じ、厳しく演技指導して度々叱ったため、撮影終了後、夏目は兄に「女優はもういいや」とねを上げたほどであった。。周囲から“お嬢さん”と見られることは後々まで彼女のコンプレックスであった。

1977年から8年間、山口銀行の広告に登場。

1977年、カネボウ化粧品キャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する。ブレイクのきっかけを作ったこのときのCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。なお、このときの撮影ロケ地はチュニジアであった。その後、TBSの『すぐやる一家青春記』で二回目の連ドラ出演し、東映『トラック野郎』にも6代目マドンナに抜擢された。

1978年NHK大河ドラマ黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を得る。この時、「頭の形が良く、美しくて神々しい」と話題になった。ドラマは好評で、翌年放送される『西遊記II』にも出演。これらのドラマによって夏目雅子の人気が高まったことにより、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、本格的に女優を目指したいと本人が直訴して、P&M事務所から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した。以後、仕事は女優業中心となる。

1979年、父が癌に倒れ、摘出手術。夏目雅子は「気絶してしまうからやめなさい」という医師の指示を聞き入れず、父の手術の一部始終をその目で見た。なお父は末期癌で手術のかいなく翌年に47歳で他界した。

1980年、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演。プロデューサー久世光彦からこれからの女優として推薦され、ドラマ『虹子の冒険』(テレビ朝日系列)で初主演。同様に夏目雅子の女優としての将来性を見抜いた演出家和田勉によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢された。このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった。これらドラマでの迫真の演技により女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した。
さらにこの年は映画『二百三高地』にも出演。

1981年、『野々村病院物語』に出演。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』にもお市の方役で出演。この年にバセドウ病の手術を行った。

1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。そのため事務所の大反対を受けたが、説得に説得を重ね、本人がヌードになった。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。演技派女優としての地位を確立したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。

1983年、NHK大河ドラマ『徳川家康』に淀君役で出演。『小説吉田学校』で吉田茂の三女麻生和子(元内閣総理大臣麻生太郎の母)役で出演。

1984年、不倫していた作家伊集院静結婚神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。媒酌は行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻。結婚式もこの寿司店で内輪だけで行われた。後日、自宅で週刊誌用に行われた記者会見では、新婚旅行はどこに行きますかと問われて、「韓国です。」と答えている。

1985年2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中に体調不良を訴え、出演続行を望む本人を何とか説得して、翌2月15日慶應義塾大学病院に緊急入院した。急性骨髄性白血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。当初から、娘の芸能活動にずっと反対だった母スエは、彼女が入院して初めて娘の出演する作品をみてベッドの彼女に話しかけた。その時彼女はとても喜んだという。

1985年9月11日午前10時16分、逝去。約7ヶ月という長い闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、その後、抗がん剤の副作用等が原因とみられる肺炎を併発。8月下旬からずっと高熱を発し、9月8日に突然熱が一時的に引いたが、翌日から高熱を発して意識不明の重体になり27歳で死去。

戒名は芳蓮院妙優日雅大姉。菩提寺は、山口県防府市防府駅近くの大楽寺、多磨霊園の小達家の墓にも分骨されている。なお彼女自身の遺作は『北の螢』であった。

後10年にあたる1995年キヤノンのコピー機の宣伝に夏目雅子が起用され、限定百組で写真集をプレゼントするという企画があったが、全国から23万人もの応募があった。後に彼女を題材にしたテレビドラマも数多く作られた。

家系[編集]

小達家の家系は、もともと徳川将軍家の御典医で、四ッ谷に薬草園を拝領していたという家柄。明治になって「赤門堂」という薬草問屋を始めて、昭和8年に株式会社・亀甲屋と改めた。戦後、焼け出されて一から出直しとなったが、屋号は同じに雑貨屋として再スタートし、順調に成長。自宅兼店舗だった建物も、平屋から木造二階建て、さらに1967年には店舗は亀甲ビルとなり、高度経済成長とともに発展した。高輪に引っ越すまで、幼い雅子もこのビルで暮らしていた。母・スエは群馬県沼田市出身。

3歳上の兄・小達一雄は、映像ソフト制作と芸能プロダクションの企業である(株)スイート・ベイジル・エンタテインメントの元社長。医療用カツラの開発にも携わり、ヘキサ・プロセス株式会社の社長も務めた。夏目雅子ひまわり基金事務局長。現在は、骨髄移植の啓発とドナー登録の呼びかけ、臓器移植に関する知識の啓発などを行っている。

女優で夏目雅子の友人だった田中好子は夏目の死後、兄と結婚して義姉となる。同じく楯真由子は姪。なお、元夫の伊集院は篠ひろ子と結婚している。

10歳下の弟・小達敏昭はプロゴルファー。

姪は宝塚音楽学校第100期予科生。

出演作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

バラエティ番組[編集]

ワイスク。(2015年9月7日。テレビ朝日。)特集放送 追悼番組。(2015年11月15日。BSフジテレビ。) 徹子の部屋。(テレビ朝日。)2016年1月9日に放送された

ラジオ[編集]

レコード[編集]

  • OH!クッキーフェイス / 夜明けのヨット(1977年7月、CBSソニー

CM[編集]

生前

  • 内野株式会社 (現:UCHINO Lifestyle Designing)「うちのタオルはうちの」(1976年)
  • カネボウ化粧品 クッキーフェイス(1977年)
  • カネボウ絹石鹸(1983年)

没後

舞台[編集]

  • 『機関士ナポレオンの退職』(1980年)
  • 『築山殿始末』(1982年)
  • 『露地に咲く花』(1982年)
  • 『愚かな女』(1985年2月、西武劇場

その他[編集]

俳句[編集]

伊集院静に連れられて、写真家の浅井慎平が主催する「東京俳句倶楽部」の句会に所属。俳号は海童。

夏目雅子ひまわり基金[編集]

夏目雅子の闘病生活では、白血病の治療薬の副作用による脱毛に、本人も家族も悩み、精神的苦痛を味わった(しかし母の前では「髪の毛くらい、いいわ。私、三蔵法師の時とっても素敵だったのよ」と気丈に言ったという)。1回目、2回目の化学療法で、脱毛を恐れて副作用の弱い薬を選び、積極的な治療を行わなかったことが、死につながったとの母小達スエの強い後悔の念から、患者の闘病生活(特に脱毛の恐怖や、頭髪が抜けた後の患者の頭皮の負傷など)、寛解後の社会復帰を支援したいと、母スエを代表として小達一雄を中心に、彼女の遺産をもとにして癌患者へ無償でかつらを貸し出す組織、『夏目雅子ひまわり基金』が、1993年12月に設立された。

ひまわり基金では、かつらの無償貸し出しと、不要になったかつらをクリーニングや修繕して再利用する活動の他、「ひまわりカップ」というチャリティーゴルフ大会も企画し、ドナーカードの登録や骨髄移植、エイズの正しい知識などの各種の啓発活動も合わせて行っている。パンフレットや記念品には夏目雅子の他、田中好子なども起用された。(財)骨髄移植推進財団のCMなど現在も夏目雅子が起用されている(2003年の公共広告機構(現:ACジャパン)のCMもほぼ同様)のはこのため。なお、ひまわり基金では現在も活動を支援してくれる賛助会員を募集している。

演じた女優[編集]

高橋留美子原作の漫画『めぞん一刻』のヒロインである音無響子の、キャラクターモデルは夏目である。

白血病発症に関する都市伝説[編集]

2009年に札幌医科大学医療人育成センター教養教育研究部門教授高田純が、女優の夏目雅子は中国の核実験による被曝が原因で白血病を発祥したと主張する文章をいくつかの雑誌に寄稿した。夏目雅子がテレビドラマ『西遊記シリーズ』の中国ロケの際に被曝したと主張している。

しかしながら、夏目雅子が『西遊記シリーズ』で中国ロケに参加した事実はないため、高田純の主張には根拠がない。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]